ランタンの灯りの中で

ネイディゴとアルの、いつかの夜のお話。

 

 

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(……おや?)

 草木も眠る丑三つ時。交易都市の一角に佇む冒険者の宿・蒼空亭にて。

 喉の渇きを感じ、水を飲みに行ったその帰り。一人の青年――ネイディゴは、何かに気付いてその足を止めた。

 見れば、ランタンの灯りだろうか。一つのドアの隙間から、僅かに光が漏れ出ている。

(ここは……確か、リーダー――スカイの部屋ですね。消し忘れでもしたのでしょうか)

 スカイ。ここ蒼空亭を拠点に活動する冒険者パーティ・『狭間の羅針盤』のリーダー。

 パーティの意志をまとめ、決定を担う。そんな重役を誠実に果たす、したたかな女性――まだ仲間になって日は浅いが、少なくともネイディゴは、そんな印象を抱いていた。

 そんな彼女も、宵闇が満ちるこの時間は、きっと眠りに就いていることだろう。

(さて、どうしたものでしょう)

 部屋から零れ出るランタンの灯り。消した方が良いかと思いつつ、就寝中の相手の部屋に入るのは気が引ける。しかし、灯りが付きっぱなしというのも、なかなかどうしてすっきりしない。

 短い思案の後、ネイディゴは結局、灯りだけ消しに入ることにした。ランタンの灯油も安くはない。使わないなら消しておく方が、部屋の主にとっても得である。

(すみません、失礼します……って、あれ?)

 なるべく音を立てないように、慎重に扉を開ける。すると、想像通りの一つの人影と、想像していなかったもう一つの人影があった。

(あれは……アル?)

 背をベッドの側面に預け、膝を立てて床に座り込んでいたのは、同じパーティの仲間――アルだった。

(ここ、アルの部屋だったのでしょうか? ……いや、違いますね。アルの部屋は、もっといろいろなものが置いてありましたから)

 積み重なった本、魔術の触媒、多数の魔道具……少し前に見た彼の部屋の光景と、目の前の光景を比較して、ネイディゴはそう結論づけた。

(こんな時間に、それもスカイの部屋で……アルは一体何を?

 本を見てはいますが、読書にしては――)

 コトン。

「!」

 あれこれ考えていたからだろうか、僅かに注意が散漫になっていたらしい。

 ネイディゴがうっかり立ててしまった物音に、本を見ていたアルが、弾かれたように視線をこちらに向けた。

「誰だ……って、ネイディゴか」

 見知った顔だったことに安堵した様子で、アルは肩の力を抜いた。

 あんまり静かに開けるものだから分からなかったと、溜息混じりに呟く彼にすみませんと言いながら、ネイディゴは部屋に入ってそっとドアを閉じる。

「こんな夜中にどうした。緊急事態、という訳でもなさそうだが」

「少し喉が渇いただけです。それで水を飲みに行って、その帰りだったのですが、部屋から灯りが漏れていたのが気になりまして」

 ネイディゴの言葉にああと頷き、アルは悪いとランタンを部屋の奥に持って行った。灯りを使っていたのは、スカイではなく、彼の方だったらしい。

「そういう貴方こそ、こんな時間に何を? それもスカイの部屋で」

「見ての通り、読書だが」

「それにしては、頁を捲るのが随分遅い。本当に読書をしているときの貴方は、もっと速く読んでいるはずですが」

「……」

 問い掛けるネイディゴのことを、じっと見つめていたアルだったが、やがて観念したように小さく息を吐いた。

「そうだな。流石はネイディゴ、よく見ている。全くもってその通りだ。俺は……」

「……う」

 それまで沈黙を保っていた部屋の主――スカイが、不意に声を漏らした。ネイディゴがほとんど反射的に視線をやれば、その表情はみるみるうちに険しくなり、次第に、苦悶の念を滲ませていった。

「う……ぐ、うあ……」

「これは……! どうしたんですか、スカ――」

 ネイディゴが言うより先に、アルが素早く動き出した。

 迷うことなくスカイの手を取り、その手をそっと、優しく握り――

「…………」

 しばらくそうしていると、やがて、スカイは穏やかな表情を取り戻し、部屋の中は、再び夜の静寂で満たされた。

「時々、こんな風に魘されるんだ。スカイは」

 スカイの呼吸が落ち着くと、アルはそっと、ベッドの端に腰を下ろした。握ったその手は、離さないままで。

「……昔からですか」

「少なくとも、冒険者として旅をするようになってからは」

「どのくらいの頻度で?」

「……月の満ち欠けが一巡する間に、1、2回ほど。旅を始めた頃はもっと多かった」

「……知りませんでした。旅先で共に眠ったときも、そんな気配を見せたことは」

「依頼の最中はならないからな。依頼中のスカイは、常にある程度気を張っている。悪い夢に苛まれるのは、いつも、依頼の最中でないときだ。もっとも、依頼中でも、そうした事象を引き起こす事件に巻き込まれたときは別だが」

 ネイディゴの問いに対し、アルは淡々と答え続ける。

 その表情は、小さなランタンの明かりの影となり、伺うことはできなかった。

「ん……」

 小さな声を零しながら、スカイが身動ぐ。先ほどのように苦しげではないが、僅かに眉をしかめている。そんなスカイの様子に、アルが、手を握る力を少し強めたように見えた。

「悪夢は凶器だ。無意識の世界で、逃れようのない場所で、心を抉り、切り刻む」

 厚い雲に隠されていた月が、少しだけ姿を現し、辺りを照らす。

 月光に照らされ、ようやく伺えたアルの顔。

 気のせいかもしれないが、その顔は、ほんの少しだけ、憂いを帯びていたように見えた。

「初めから、悪夢を見ないようにする方法は無いのですか」

「完全には不可能だが……無いということはない。夢は記憶の産物。手っ取り早いのは、悪夢の根源になりうる記憶を封じることだ」

「記憶を……」

「ただ、スカイはそれを望まない」

「……何故?」

 率直な疑問だった。

 苦痛から逃れる術があるのなら、縋りたくなるのが人の性。

 だというのに、それを拒むのは何故なのか。……なんとなく、予想はできているが。

「――どんなに嫌な記憶でも、それらは全て、己の一部。

 自分を形作り、意志を支える、大切な道しるべ。

 だから、記憶を封じることはしたくない。全て受け止めて、前に進みたいのだと。

 ……そう言っていた」

「……」

 ほぼ、予想通りの答えだった。

 真っ直ぐで、凜として、眩しいほどに、したたかで。

 全く、どこまでも――

「……それでも、ときに悪夢は、想像以上の鋭さを持って、スカイの心を殺そうとする」

「だから、貴方はこうして、スカイの側に?」

「……」

 アルは、何も答えなかった。

 ただ、その目は真っ直ぐに、スカイのことを見つめ続けていた。

「……本当は、愚かなことなのだろう。

 避けられる術を知っていながら、茨の道を進むことも。

 道の険しさを知っていながら、そこへ進む者を止めないことも。

――それでも俺は、守りたいと思ってしまった。スカイの決意を、その意志を。

 だからせめて、俺は、スカイを支える。牙剥く悪夢に立ち向かえるように。降りかかる凶刃を、はね除けられるように」

「……」

 ……合理的に考えれば、愚かだと思う。

 意志を重んじ危険を冒す。そうして冒したリスクを上回るメリットがあるのか、その確証も、保証も存在しないのだから。

(けれど、愚かにも、僕も共感してしまう)

 大切なのは一人だけ。ただ一人だけ、守ることができればそれで良い。

 そう思っていた彼を変えたのは、他ならぬ、この人の――

 

 

『……逃げたりしない、絶対に。

 それが、私の為すべきことだから』

 

 

(――スカイのその意志の強さに、僕も、魅せられてしまったのだから)

 ひとつ息を吐き、窓の外を見やる。

 気付けば、雲はすっかり消え去っていた。

 

 

「……では、僕はこれでお暇しますね」

「ネイディゴ、このことだが」

「分かっています。貴方もスカイも、悪戯に皆に心配かけるようなことはしたくないのでしょう。

 それが皆の命に関わるようなことになれば別ですが……そうでないなら、このことは、僕の中で留めておきます」

「……助かる」

「その代わり、一つお願いです」

「?」

 ネイディゴの言葉に、アルは目を丸くした。彼のこんな表情を見たのは、ネイディゴにとって初めてだった。

「この先、貴方たちの手に余るようなことがあれば、できる限り、僕にも手助けさせてくださいね

 僕だって、『狭間の羅針盤』の一員なのですから」

 その言葉の方も、予想外であったらしい。アルは呆けたようにして、目を丸くし続けていた。

 だが、やがて小さく息を吐くと、少しだけ、その口の端を上げたのだった。

「もちろん、頼らせてもらうぞ――『狭間の羅針盤』・ネイディゴ」

「力添えしますよ。『狭間の羅針盤』・アル」

 夜の静寂の中で、交わされた言葉。

 彼らが言葉を交わすその姿を、ランタンの灯りが、優しく見守っていた。